「お金」

「教会もやっぱり献金するんだ」と言われる方がいます。
確かに尊い献金で教会は運営されていると
思いますが、「強制」ではありません。


「富のあるところに心がある」と聖書にありますが
まさに、惜しみなく払える場所が
自分の心の場所なのでしょう。


信仰を持ち始めのころ
私は、かなりの献金を納めていました。
それは、教会の知人が
献金だけは神様を試せるんだよ*
祝福が捧げた以上に戻ってくるから。」


*聖書:マラキ書 / 3章 10節
「十分の一の献げ物をすべて倉に運び
わたしの家に食物があるようにせよ。
これによって、わたしを試してみよと
万軍の主は言われる。
必ず、わたしはあなたたちのために
天の窓を開き
祝福を限りなく注ぐであろう。」


まぁ、私としては本当に単純に
「神様の祝福をいただきたい」という下心で、
十分の一以上を捧げていました。
確かに収入も「うなぎ昇り」になりましたが
ある時、
「これを貯金したら、いくらになったのだろう」
とパチパチと計算をしてしまいました。
このお金で、もっといい車が買えた、
海外旅行ができた…そう思うと、
いきなり「献金」することが惜しくなり、
いつも第一週目に納めている献金
伸ばし伸ばしし、出し渋っておりました。
しかし結果は
一ヶ月分の献金のお金が
進入禁止、駐車違反、スピード違反
に払わなければならなくなり
痛い出費と共に「減点」という
ダメだしを頂きました。


そして、ある夢を見て…いつかお話しますが
それ以来、私は「渋々」ではなく
喜んで、捧げることに決めました。
(神様は心を見られるので…。)


「お金」を惜しみなく払える場所、
喜んで払える場所…そこに
心があるのがわかるなら、
今、何が自分にとって一番なのか
わかるっていうのも
実に興味深い話です。



誤解がないようにですが、
決して私自身が確かな間違えのない
「経済観念」を持ち合わせている訳では
ございません。


主人にいつも言われます。
「足は2本しかないだろう」
…それは私の靴の数を見て。
「腕は2本しかないだろう」
…それは私のバックの数を見て。
貧相に見えないのは、
高価なものは食べていないが
しっかり食べているからかもしれない。
「痩せたら着よう」という数多くの洋服たちも眠っている。


そうです。まだまだ
この世に心が捉われているのです。
この「欲」が少しづつ消えて
きっと、もっと身軽になって天国へ。


死んだら何も持っていけないですし…。
今度、ガレッジセールをして処分しよう…と思っています。







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