証拠を見せて(1)

体験レッスンと言って、「前もって体験できる」。
きのう2人だけだったので、
これからどうなるか未定だが、
「一人でも、とりあえず…」とご入会されたお子さんが
レッスンの時、
「音域が広い」という話しで、すかさず
「やってほしい」と言われ、その言葉に応じて私は歌った。


それは、「真理」だと思う。


「私は○○です」と言葉だけ聞いて、
「はいそうですか」と信じるのもどうかと思うし、
「私は○○です」と聞いて、「ありえない」とか
それを確かめずに、いろいろ憶測して否定したり、
自分が納得しても、人の意見に左右されたりするのもどうか…。


その点、子供は自分の感じたことが「すべて」。
「良かった」「楽しかった」…他人はどうでもいい
自分がそう感じないと、納得しない。
だから、私は自分自身が
「子供のような感性」を持っていると思うので
子供と合わせなくても、合う…いいか、悪いかは別として。


聖書も、「私はあなたを愛している」と
神が本当に言われるなら、「証拠」を
見せられると思うのです。
(もちろん、世界に自分という存在は一人しかいない。
そのことがオリジナルであり、愛されている証拠なのですが。)
始めから、「信じない」のは自由ですが
「本当にその神がおられるなら確かめてみよう…。」
とりあえず、「聖書を読んで」とか
思われても「損」ではないと思うのです。


実は信じたばかりの時、
「神が私を愛している証拠がほしい」と祈ったことがあります。
あした、そのことを思いだし、お話します。