「永遠」

「苦しみ」と呼ばれるものは2種類あるように思います。


自分に一方的に架せられた十字架。
自ら担ぐ十字架。


自ら担ぐ十字架は
私が説明するまでもありません。


ただ、一方的な「なぜ?」と思われる災難が
身の上に起こることがあります。
これは、正直、神様しかわかりません。
ただ、偶然な、無意味な災難ではなく
意味のあることで
後に2倍の祝福を受けることがわかります。
(聖書の「ヨブ記」に記されています。)


同じハンディを持っているとか
同じような境遇であっても
「生き方」に違いが出てくる場合があります。
それは
それを「バネ」にするのか、「逆恨み」するのか。
ただ、
「希望を持とう」と言って、持つことができるのであれば
私は「神様」の話しはしません。
でも…


「神も仏もない」。


そんな思いを持っておられる方がおられるなら
「仏」の説明はもっとよくご存知な方にして頂いて
私は「「神様」がおられることを
知っている範囲でお伝えしたいのです。


神様がいるとわかると「希望」が持てます。
なぜなら
「意味のないことを全能なる神がなさるはずはない」。
不完全な人でさえ、
「無意味」なものを作ったりする人はまず、いないのですから。
まして、自分の子を捧げる代価を払って
「命」をかけて
「無意味」なのもを作る人がいるでしょうか。


そう代価を払ってまで愛して
創られた神の作品が人間なら「希望」が持てないでしょうか。


私は自分で蒔いた種を刈り取るような十字架を
背負った時もありました。
そのことを通して多くのことを学びました。


そして、「なぜ?」という一方的な十字架もありました。
でも、それは「2倍の祝福」を受けたと今は思っています。
ただ、「受けた」と言っても
この地で受けるのは僅かの期間です。


この地は生きても100年。
その後
「永遠という世界がある」と聖書に書かれてある。
「永遠」に目を留めたとき、
真価が見え、
この地でどう生きるか、が見えてくるのかもしれません。


ただ「永遠という世界がある」という聖書を
信じるか、信じないか
それは私たち人間側にあると思うのです。