「マイナス」の素晴らしさ

先日、「ない」ことの素晴らしさ…を
ブログに書いたが、今度は
ない…つまり「0」ではなく
「マイナス」。
それ以上…いえ、それ以下の話しになる。


「失敗は成功の元」とは
よく言ったもので、
マイナスからは多くの「気づき」がある。


私は何度も書いたが
「小心者」を代表するものだった。
人前に出ることが大・大・大の苦手だった。
「人、人、人」
どんなに手のひらに書いて
飲み込んだだろうか。
そう、笛のテストで
震えが素晴らしいビブラートを生み、
先生に褒められた。


「よく、(笛を)落とさないで吹けました」。


そのことが、まるでウソのように
いえ、人前に出ることが
自分の仕事になると、誰が思うだろうか。


でも、その「マイナス」があったからこそ
自分が誇ることのできない者であることを
自覚でき、神に感謝するしかない。


「心を変えることが難しい」と言えるのは
どんなに頑張っても
自分の努力では変えることができない経験があるから。


「三日坊主」の私がイエス様を信じて
20数年になる。
「放蕩」して教会から、
いえ、イエス様から離れたことが一度もない。
それは
「私を創って下さった方を知ってしまった」から。
でも、その割には
年数ばかりで、成長があまりないかもしれない。
今、思うといっそ「放蕩」した方が
戻った時、スピードを上げて成長できたかも…。


だから「遠回り」というマイナスも
「損」しても、決してマイナスで終わらない。


私は、「腸の病気」で入院した時、
77日間点滴、絶食という時があった。
(今は神様と主治医の先生のおかげでチョ〜元気です)
その時、
食事が始まって、やっと
「おもゆ」を口に1スプーン入れた時、
涙がこぼれたことを思い出す。
「当たり前じゃない」
それは「恵み」に気づける。


「マイナス」からでしか得られないものがある。


究極的には
全人類の罪の贖いとして、イエス様が身代わりになる。
なんと言っても、
メシヤ(救い主)が処刑されるのですから。
人からすれば、これほどの
「マイナスの方法」はないのでは…。


いや、「マイナス」ではないか。
…十字架だから。
+++…。