聖書の中の御言葉で
「天の下では、何事にも定まった時期がある。
すべての営みには時がある。・・・・」から始まって
「泣くのに時があり、ほほえむのに時がある。」


・・・そして、有名な個所
「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。
神はまた、人の心に永遠の思いを与えられた。
しかし、人は神が行われる御業を初めから終わりまで
見極めることはできない。」


人はよく「運がいいとか悪いとか」使いますが、
クリスチャンは使わないですね。
だって、すべてが「偶然」ではなく「必然」と
考えるからです。


今日まで、いろいろな方々の歌のご指導を頂きましたが
先生がダブってしまうようなことはなかったし、
「師を変えよう」と自ら思ったこともなく、
ただ出会えた師によって
多くのことを学ばせて頂いた。
今は感謝の気持ちでいっぱいです。


「人よりも上手くなりたい」だの、
「有名な先生につきたい」だの思ったわけでもなく、
まして「演奏」することが自分の使命、仕事となるとは、
考えもしなかった。


でも、今思うと、素晴らしい師を
絶妙なタイミングで出会えたことを考えると
またその期間やいろいろなことが
実際、人間の手でつくりだせるものではないと、
「運がいい」って言われるけど、実は、
すべて神の計画なんだと思わされているのです。


学校に勤めることで、しかたなく「弾き語り」を
(伴奏だけしても、誰も歌ってくれませんから)
バンドのヴォーカルでPOPS的な発声で歌ったり、
方耳が聞こえなくなって手話を学んだり、
弟を通じて黒人シンガーと出会い、
有無もなく歌うように導かれたこと。
それが「ゴスペル」だったこと。
コーラスやクワイヤーの「ソロ」がいつも
高音をしたいのに、男性のソロの部分であったり
歌いにくい低音であったりしたことが
音域を広げる結果になった。
毎週教会で特別賛美を頼まれ、
それが今のレパートリーになっていることも。


あっ…今気がついた。
「学校での弾き語り」も「バンド」も「ゴスペル」も「ソロ」も
「毎週の教会での特別賛美」もすべて
思いも願いもしないことだった!!
むしろ、初めは困惑ぎみだった。
「避けられるなら、避けたい」くらい。


まさに「時」があると思うのです。