心の痛み

家族同然のペットが
いなくなるっていうことは
本当に悲しいこと、苦しむことは当然。
きのう、オチャラケてブログに書いたので
あまりの悲しみに気でも違ってしまったか…いえいえ。


自分を苦しめたくないために
逃げたり、遠ざかったりする術を身につけてしまった?!
「苦しみ」を直視できなくなってしまった?!
いや、あきらめた訳でも悲観している訳でもない。


苦しんで嘆いたことで事態が変わらないなら
「裁くことは私がする」と
神が約束してくださるのだから、
すべてご存知の神にすべて任せてしまおう…と。
神様が最善に導いてくれると信じている。
それに「許さない」ことは自分が苦しむことだから。


「人生の苦しみ」っていろいろある。
私の知っている中で、まるでドラマのような
人生を送った方と何人か出会った。
その中でも、
このような生き方をされた方とは
もう二度と会うことないだろう。


あれは浜松にいた頃…。
教会に一人の青年が来た。
彼は「哲学」の勉強をして頭もいいが
時々、「スーパーマン」になったり
「宇宙人」になったりするので、
途中、会話が見えなくなった。


そして、彼の生い立ちを聞いた。


彼が小学生のころ、彼の父が刑務所に収監され
母の手で育てられた。
やっと父が家に帰ってくるその日に母は蒸発した。
そして父に育てられた。
彼は働く選択もできる年頃になったが、
父が朝から晩まで働き、その得たお金を
学費として彼に注いだ。
ある日彼は、朝学校へ「行ってきます」と出た。
家に帰ってくると、朝と同じ格好で父は寝ていた。
そして、冷たくなって動かなかった。


突然、彼は大きな声で叫び泣いていた。
「俺が、この俺がお父さんを殺したんだ!!」
「その罪で押しつぶされそうになる。
だから、他の者にならないと僕は
苦しくて、苦しくて…。
だから、僕は生きていてはいけない!」


その良心の呵責…その「思い」を
取り去ることができるのは
まさに「イエス・キリストだけだ」と
私は精一杯、熱く語った記憶がある。


もし、自分の本当の思いを握り潰すなら、
人は誰でも
精神的な障害を持ってしまうだろう。
「解決」する場所、
それは自分を創ってくれた所に
修理してもらうしかないのでは…。


「いつくしみ深き」の詩でサビの部分で讃美歌だと
「わが友我らを捨て去る時も、
祈りにこたえて労りたまわん」の部分があるが、
元の詩(*)を直訳すると
「われらは時々、平安を失い必要のない痛みを受ける
なぜなら全てを神に委ねず、祈らないからだ」


(*)
Oh what peace we often forfeit
Oh what needless pain we bear
All because we do not carry
Everything to God in prayer


私の悲しみと、婚約者2人も失う苦しみとは
比べ物にはなりませんが、
同じ状況でも、その「苦しみ」の受け取り方で
重荷の重さが変わってくるのでは…。