幸せと不幸

昨日、ブログに書いた彼は
イエス・キリストが身代わりに十字架にかかった」
という意味が、きっとわかると思う。
父親の愛とキリストの愛を重ね合わせることができるから。


「不幸」は本当にいろいろある。
考えられないことや驚くような「不幸」を
いろいろな方の出会いを通して知った。
でも、人が思いに描く「幸せ」って
家族が元気で、お金があって、悩みがなくて…。
不思議と簡単に思いつくし種類はそうない。


「不幸」の中でも「死」に纏わるものは必ずあり、
長寿を全うしない限りは、
別れによる「悲しみ」は誰しも例外なく訪れる。
「延命」や「長寿」の研究をしても
「科学」が進化しても「永遠に生きる」という
夢のような話は、未だ「夢物語」なのか…。


実は、聖書に「永遠の命を得る」方法がある。
イエス・キリストを信じるならば」という条件つきだが。


ほとんどの方がきっと「胡散臭い」と思われるだろう。
「ご利益的」に感じるかもしれない。
でも、他の宗教のように
「商売繁盛」とか「家内安全」とか「無病息災」とか
そういう意味での「ご利益」を聖書は保障していない。
むしろ、「信じたら試練を必ず通りますよ」と
聖書の至るところに書いてあるんです。


聖書では「試練」は「塾」のようなものと考えているのです。
ようは、自分の子を
「火の中に投げ入れる」ということはしなくても
…火傷するだけでなんのメリットもないですから。
でも、親なら、自分の子の将来のために
子が苦労することがわかっても
「塾」には行かせませんか?
それも将来が必ず
「最高に生きれる」とわかっている「塾」なら。


私は「永遠の命」を得るために
エス様を信じた訳ではない。
けど信じて「生き方」「考え方」が変わっていく。
いろいろなことを通し、目先の生き方ではなく、
「プロセス過程」としての考えで生きるようになる。
いや、そのように試練を通し、訓練される。


もちろん、自由意思があるので
エス様を信じても、クリスチャンになっても
その試練を放棄することや
自分のプライドを優先することもできる。
でも、いかに、自分を捨て神に従うか、
これが「祝福」を多く受けることができるか
否かにかかってくる。


偉人伝に出てくるクリスチャンは、間違いなく
自分を捨て、神に従った人といえますね。


私?!
なかなか自分を捨てられませんが、
神からの「試練」という塾は卒業できるまで
絶対ギブアップしたくありませんね。
「祝福」をたくさん受けたいですから。