ストレス

先日、母が「困ったわ…」と話しを切り出した。
たまにらしいが、夜中に「寂しい」と
死にそうな声で電話がかかってくるというのだ。


耳も遠くなった母にささやいても
なかなか理解されず、聞き直している途中で
音信不通になったらしい。


1,2度教会であったらしい女性で
顔も覚えていない母に悩みを打ち明けるのは
よほど、友人も知り合いもいないのだろう。


私は、クリスチャンだからと言って
すべての人を受け入れるのは「無理」だと思っている。
その時は残酷かもしれないが
「切る」ことも必要だと思っている。
そして、中途半端に手をかけるなら、
「手当」するものがないのに傷口に触れるようなものだと。


「もし、私だったら…」
1.その場で祈る。「平安」が与えられるように。
2.近くの教会を勧め、牧師に相談、祈ってもらうように勧める。
3.「これ以上はできない」と意思を告げる。


腸など患い、「ストレス」が
いかに体にダメージを与えるかわかった。
なので、抱え込まないことにしている。
「ストレス」は、ある意味、自分の気持ちで
どうにでもなることだと最近思えるようになった。


試練が来たら、
神が「耐えられない試練は与えられない」と言われるのだから
「耐えられる試練」として、
その問題に立ち向かうのか退くのか、
導きに従い、気負わないで、対処していく。
嫌なことがあったら、
「何か意味があり、自分に必要なプレゼント」と思えばいいし。


そう、どちらにしても「神の許し」あってのことだから
いつも神様の前に「降参の旗」を出してしまう。


ところで「ハレルヤ」の意味は「ハレル」は、「ほめたたえる」。
「ヤ」は「天地創造、全知全能の唯一の神」のこと。
そして手を挙げるのは、まさに「お手上げ」。
神の前に「降参」という意味がある。