切り札(1)

さて、まず初めに
「試しに信じてみましょう」はできません。
イエス・キリストを信じ受け入れるなら、
心の王座をイエス様に渡さなければなりません。


クリスチャンになっても、この世の価値観に生き、
心の王座に「自分」も腰かけているなら
股裂き状態の苦しみに会います。
なぜなら、神の計画と人の計画は全く違うからです。
ですから初めから「自分が神」「王座には自分が座る」
と決められているのでしたら…何度も申し上げますが、
この「切り札」は何の効力もありませんし、
むしろ苦しむだけの話しです。


では、「自分」ではできない、限界。
あるいは「何のために自分はいるのか」
と思われている方には朗報です。


どこから話したらよいでしょうか。
牧師でもないのに、お話するのは大変恐縮しますが
「より一般人」の目線でお話ができると思い、書かせていただきます。
詳細はお近くのプロテスタントの教会で
お聞きになってください。


「約2010年前に私のために、あなたの為に
イエス・キリストが十字架に架かりました」


…と言われても、信じようがないですよね。
では「イエス・キリスト」について。
イエス・キリスト」は架空の人物でもなく
おとぎ話しの王子様でもありません。
さきほど「2010年前」と言ったのは
この「西暦」は「イエス・キリストの誕生」が境です。
(「B.C.」と「A.D.」はご存知だと思います。)
「歴史」まさに「HISTORY」…「HIS STORY」


そして「GOSPEL」とは…「福音」「幸福な訪れ」
意味:イエス・キリストが私たちの救いのためにお生まれになり
私たちの「罪」のために十字架にかかってくださった
…という良きしらせ。
「クリスマス」…「クライスト・マス」
「クライスト」は「キリスト」
「マス」は「礼拝」。
ちなみに「キリスト」は苗字ではなく「救い主」の意味。「メサイヤ


なぜクリスマス時期にベートウヴェンの「第九」歓喜の歌)や
ヘンデルの「メサイヤ」が歌われるのか…それは
「救い主の誕生の喜び」だからです。
(バッハ、モーツァルトとかも、一流の作曲家が神、イエス様を
ほめたたえる曲を書いていることも興味深いと思いませんか)


ところで、なぜ「十字架」なのか…という点です。
極刑なのは、まさに私たちの「罪深さ」。
もし、「絶対許せない人」がいたら、話は早いです。
その人が苦しんで血を流し、十字架にかかって、
それも「あなたの為に」死んだら許せないでしょうか。
「あっけなく」幕を閉じるなら「まだ許せない」かもしれません。


ウソを教えなくてもウソをつき
わかちゃいるけど「自己中」になったり、
「ごめんなさい」より「バカ」の方が言いやすく
…個人差はあると思いますが。
なんとこんな多くの人の中で「罪」を犯さないで
生きている人は誰もいない。


どんな「罪」をも処分する為には、
これしか方法がなかったのでしょう。


それは、私たちは神様に格別に愛されて
この世に来たのだから、「罪」を
(わが子として)見て見ぬふりは
聖なる神様にはできない。
自分の分身である「イエス・キリスト」を
十字架にかけるという「神の愛」。
神の創造したものを十字架にかけたのではなく、
「神ご自身が十字架にかかった」ことに
「救い」が完成したのです。


「人の存在」の考え方について。
これは2通りあって、
この2つは決して交わることもなく、近づくこともできない。
そして、どちらかが真実であり、どちらかが虚偽。
どちらを信じて歩むかは「自由」。


それは「猿」から、もとをただせば
微生物が偶然を繰り返して「人」まで進化した…という考え。
もう一つは
「神によって、ひとりひとり意味を持って創られた
オリジナル作品」。


では後者を信じたらどうなったか
「ビフォー」「アフター」を明日お話しましょう。