切り札(2)

きょうは奇しくも「イースター」(復活祭)。
「クリスマス」は有名だけど
イースター」は知る人ぞ知る…って感じですね。


エス様が十字架にかかって死にっぱなしだったら
やっぱり片手落ちでしょう。
悲しみで、決してハッピーエンドじゃない
…たとえ「罪」が解決されても。
でも、さすが神様は3日目にイエス様を蘇らせた。


ヤッホ〜!!
それを祝うのが「イースター」です。


そう、「黒人霊歌」の時代、
差別を受けていた黒人たちの思いは
「天国」へ行くことしか望みがなかった。でも、
「GOSPEL」はまさしく、ノリがよくて明るいのは
この世にあって、「罪」許され解放されたから。


…はいはい。
私の体験談ですね。


私の父は4年ほど前に召されましたが
若い時、かなり厳しく育てられた記憶が残っています。
今から思うと、それが私に対する「深い愛」と思いますが
間違いなく「恐ろしい存在」だった。


私には7つ下の弟がいますが、
「でき過ぎる」くらいで、いつも比べられて
私は「劣等感」のかたまりだった。だから
いつも「自分の存在」そのものを考えるようになった。
「なんで生まれてきたんだろう」
弟のように優秀な人間だけが生きる価値があるのか…って。
それで6歳まで「王女」だったのが、
いきなり「弟の世話係」に落とされ、
多感な時期、「親に愛されていない」と思って育った。


そこで子供心に
「神様が私を創ったのであるなら、私は生きてていいんじゃないか」
いや、そうだったら「生きてる意味があるはずだ」と。
全治全能の神様が無駄な人間を創るはずがない…と。


もし、「偶然の産物」として、この世に生まれてきたなら
必要のない人間も誕生してしまうでしょう。それに
なんといっても、「猿」と同じレベルっていうのも嫌だったし。


詳しくはこちらをご覧ください。
http://www.bmp.jp/gospelstory/41.htm


私は父を許せず、愛せずにいた時、
エス様を信じても、信じてなくても
同じじゃないか「愛がないことには変わりはない」
…と思ったことがあった。
その時聖書に「義に飢え渇く者は幸いだ」とあった。
「義なる者が幸い」というなら、
私は「義」ではない。でも、確かに信じる前は父のことを
「愛されなくてもしかたない存在」と思っていた。
信じてから、「許したい、愛したい」という気持ちが溢れたのだ。
そこが大きな違いだと気付いた。


思ったことを叶えることが神様の役目ではなく
「私は何のために生まれてきたのか」と反対に
私自身の「生きる」意味を知ることではないのか
…と思うのです。


エス様を受け入れると
少しづつ神の光に照らし出され
自分が泥まみれであることに気付きます。
そして洗い流されて(試練を通して)
「黒」と思っていたが、「紫」だった。
「白」と思っていたが「ピンク」だった。
自分の色に気付いていく。


人は「等身大」を出せた時、
「魅力的に生きている」と
誰もが認める存在になるんじゃないかな。
「ピンク」なら「ピンク」で生きればいいじゃん。


そういえば、浜松で教師やった時、
「ピンク」っていうあだ名を生徒からもらったな。
確か「ピンクの電話」の漫才ペアのひとりが
やたら高い声で、「声が高い」ということが
命名されるきっかけだった。


明日は「心臓に毛が生えたのは、なぜ?」