永遠

先日もマイクなしで歌う機会があった。
ある方が
「生で聴かせることができる人は多くない。
自分の信念を貫いた方がいい。」とアドバイスを下さった。


きょうの日まで
意固地になっていた訳でも、頑なだった訳でもないが
たとえ、録音用であっても体にマイクを着けることを拒んできた。
「生でも大丈夫」そう、思え実行できたのは
ひとつのきっかけがあった。
1000人ほどの会場で、教会主催で他も歌う人がいたが
私のリハの時に舞台に置いてもらっていたマイクが
本番下げられていたことだった。


クリスチャンでも「意地悪」をするのか。


残念ながら、クリスチャンになったから「聖人君主」になる
…という訳ではない。
そんな人がクリスチャンか、と思いたくなるが、
そもそもクリスチャンとクリスチャンでない違いは
自分を「罪びと」と認めたかどうか…なんですね。
(でも、誤解がないように言いますが、
もちろん、素晴らしい敬虔なクリスチャンが大半です。)


ようはいくら病人でも、「自分は病気じゃない」と思ったら、
病院へは行かないし、医師にも「診てもらいたい」とも
思わないでしょう。
まさにイエス様が言われたことが
「私を必要とするのは病人。病人の為に来た。」と。


そうなると、「教会」は病院なので「病気」の人がいて当然。
「人」でつまづかなくなるでしょう。
では、「信じる意味がない」のか…。


その「いじわる」を神が許された…と考える訳です。
「いじわる」した人間は本当に神を信じているなら
そのままではおかれないでしょう。
そして、私自身にとって、そのことすら「益」になる。
いえ、そのことが私にとって必要だということです。


もちろん、今になって言えることです。


当初は、なかなか、その背後におられる神がわからず
神は多くのことを「人の思い」に任せて私を訓練してくださった。
おかげで「出る杭は打たれる」と行く先々で言われていたが
気がつくと全く言われなくなった。
私の本質の「シャイ」な部分に磨きがかかった?!
…もしかして、今笑ったでしょ?


とにかく、イエス様を信じるとヘンな所で凹むようになる。
「なんで愛せないんだろう」
「なんて自分に思いやりがないんだろう」って。
それが、成長させられるってことなのかも。


そして「永遠」に目をむけると
「今」のことがどれだけ小さいか…ということにも気付かされる。


今まで通り、流されて…そして、流されず、人生を全うしたい。