「自己主張」「自己表現」「自己実現」「自己犠牲」

「自己主張」は、
自分の意見を強く言い張り、その考えを人に押し付ける。
自分の存在をアピールする。…あまり良い印象ではない。


ここで混同できないのが、「自己表現」。
広辞苑にも載っていないので意味を把握するのは難しい。
私的な解釈なので、違っていたら教えてください。
「自己表現」は
まだまだ未知なる自分の中にある可能性を表現すること。
あるいは見出していく。
いわばアイデンティティは何か。
もしくは「その人ならではの色」を自然に出す
…出てしまうことだと思うのですが。
私は、とってもステキなことだと思う。
これを「罪」とするなら、
「神様はロボットを創るべきだった」と言えるんでは…。


次は「自己実現」。
自分の中にある可能性を自分で見つけ、
十分に発揮して行く。また、それへの欲求。
一見素晴らしく思うが、
これは実は「危険」だと聖書は警告している。
自分の中にある可能性や思いが「的外れ」の場合、
そうでなくても、
「どんな手を使っても自己実現する」となると
悪に手を染めたり、汚い策略を使うことに…。
私、クリスチャンとしていつも思うのは
自己実現」のために神を利用していないか。
クリスチャンなら(神の存在を知っている者なら)
それは「神への反逆行為」に他ならない。


そして「自己犠牲」。
まさに、人類の罪の処罰を身代わりに
イエス・キリストが十字架にかかったこと。
でもこれは「自分の力では無理」と思っています。
神の計画、力なくしてできないのではと…。


全部を演奏に例えるなら…。
でも、例えきれませんので、ご了承の上、お読みください。
Aさんの伴奏を頼まれた…とする。


Aさんがどう歌いたいかより、
「自分がこう弾きたい」を優先するなら「自己主張」。
Aさんの希望を聞き、自分の色で演奏することが
Aさんも喜んで受け入れてくれたなら、「自己表現」。
Aさんを踏み台、利用して
自分の夢を叶えようとするなら「自己実現」。
Aさんの希望と自分のしたい演奏が全く正反対の場合、
あるいは
自分にとって屈辱的で、Aさんの希望通りにしたくない場合、
それでも全面的にAさんに合わせる…「自己犠牲」。
(でも仕事として割り切るなら、
主催者の意向に従うことは当たり前で、
「自己犠牲」とは言えないかもしれません)


私なりの見解ですが、いかがなものでしょうか。
コメントお待ちしています。