「いじめ」

「いじめ」で自殺するニュースが流れている。
「おかあさんが日本人じゃない」
それは事実とか、事実でないとかという問題ではなく、
いじめている人の「心」が問題。


以前、静岡で学校の先生をしたことがあった。
浜松の小・中学校の産休補助として。
そして一校だけ浜名郡管轄の中学校に
一年の「担任」として3ヶ月間のみ講壇に立った。
その間、「道徳」の時間としての教材の中に
こんな話しが載っていた。


ある池にカエルが住んでいた。
そこを学校帰りの子供たちが
石を投げて遊んでいた。
その子供たちにカエルが言う。
「君たちにとっては遊びかもしれない。
でも、ぼくらカエルにとったら
死ぬか、生きるかなんだ」


そう。いじめている張本人は
実はいじめていると思っていないところに
この「恐ろしさ」はある。


事実、私は「いじめられた」経験も
「いじめた」経験もある。
今、思っても、いじめた…という自覚はないが
自分が「いじめ」を体験することで
その苦しみを理解できたのである。


私は、3年前、地元の小中学校の音楽合唱祭のゲストで
出演したことがあった。<袖ヶ浦市音楽祭(19年)>
その時、演奏の他にこんなことを子供たちに投げかけた。


「ねえ、ひまわりの種を蒔いたら、何になる?」
「…」
ある子が大きな声で答えた。
「ひまわりの…種」


そこまで行くとは予想もしなかったが、
「ひまわりはひまわりの花、あさがおはあさがおの花。
バラからさくらは咲かないよね。
じゃ、『いじめ』たら…」
「そう『いじめの答え』が返ってくる。
実は、私はいじめたことがある。社会人になって
なんと3倍になって返ってきた!!」
と話すと、会場から
「え〜っ」と男の子の声がして笑いに包まれた。


そして
「必ず、自分に返ってくるから、
『いじめ』は自分のためにしないことだね」と付け加えた。


人のため、相手の身になって…おおよそできないところから
「いじめはやめよう」と叫んでも無理だと。
自分のために「人を許す」
自分のために「いじめない」


天に「ツバキ」をかけたら必ず戻ってきますので。
これは「自然の法則」なんですね。