「・・・らしく」

この「…らしく」は結構「くせ者」。
私は「おねぇちゃんらしく」と育てられた。
「らしからぬ」から「らしくしなさい」と言われる訳で、
この「らしく」には、いささか抵抗があるのだ。


心から、「…らしく」なればいいのだが、
取り繕った「…らしく」は偽善者…というか、
「そうでないのに」形だけ、表向きだけになる気がする。


「らしく」は「ように」「風に」の意味合いもあるから
そのもの自体を否定している意味にもとれる。
例えば「松田聖子らしく」「松田聖子のように」と言ったら、
その本人ではない。


「自分らしく生きる」○
「私らしく生きる」○
でも、例えば
「信仰者らしく生きる」となると
あのイエス様が唯一嫌ったパリサイ人や律法学者は
まさに「信仰者らしく」見えたと思う。


私は「等身大」の生き方が
魅力ある生き方だと思っているので
「弱さ」「足りなさ」も魅力と思う。


いろいろな方と出会い、魅力のある人と感じる人は
「相性」もあるが、やはり
「等身大」で生きている方でしょう。


人は努力して
人生を勝ち取って行く生き方もあるかもしれないが
「努力」しても、
どうにもならないこともあることを
知っている方がいいこともある。


「いじめ」にあった。
それが「自殺」に直結する前に
「逃げる道」を教えることも大切じゃないかな…と。
転校しても、学校に行かなくても…。
そんな選択肢があることを知らないのが不思議なくらい。
学校に行かないなら、生きててもらわなくていい…
なんて親はどこにもいないと思うのですが。
(なまくらな私だから、そう思えるのかな。)


ヘンな種を蒔いちゃうことも人間である以上仕方ない。
それは、いつか刈り取らなければならないけど
生きていれば、
いくらでも「新しい種」を植えるチャンスがある。


それを教えるのは、親なのか学校なのか、教会なのか。


…とにかく、必ず
遅かれ、早かれ、この地での役目が終わったら
必ず「死」というものが例外なく訪れます!
だから、慌てる必要はないでしょう。
(「死」が終わりでないことは教会で教えてくれます)


私たちはこの地で「自分しかできない」
人生を謳歌する特権がある。
私たちは「死ぬ」ために創られたのではなく
「生きる」ために創られたのだから。
私らしく、自分らしく…。