十字架

「十字架を負う」と表現するのは
クリスチャンばかりでない。


「十字架」…これは自分が「苦しみ」と感じることであって
同じような「試練」でも「苦しみ」と捉えられないなら
「十字架を負う」という言葉は使えない。
だから、
「そんなの『十字架』じゃない」なんて人は言えない。
今、思い起こしてみると
やはり、8回の入退院より
音楽に関する「試練」の方が大きい。


神が人を本当に愛しているなら
「火の中に入れ」という
ただ火傷する「試練」は与えないでしょう。


「耐えられない試練は与えない」と聖書にある。
ひとり、ひとりに見合った試練なんでしょう。


こんな話しがある。


ある人が「十字架」を背負って歩いていた。
人の担いでいる「十字架」に目を向けると
「軽そうだ」
「ステキだ」
「自分もあの『十字架』だったらよかった」
すると、イエス様が言われた。
「だったら、この部屋にある『十字架』を選んでご覧」
「やった〜!!」
彼は自分の「十字架」をポ〜ンと投げると
いろいろな「十字架」を試して背負ってみた。
すると
ひとつの「十字架」が気にいって、
その部屋から出て来た。
「一番、自分にぴったりでした!!」
エス様は
「それが気にいったのか?
それは初めに君が背負っていた『十字架』だよ」


さて、
自分が「あの人の『十字架』がいい」と思っても
「苦しみ」のすべてを知って
「試練」のすべてを知って
今の『十字架』と交換したい、
「人生を全とっかえしたい」と言える方は
実際おられるのでしょうか。