努力

♪〜信じる者は、みんな、みな救われ〜ん〜♪


教会に行って
まず最初に教えてもらうのは
「私たちは罪びと」です。


私は初め「一緒にしないでほしい」と
正直思いましたが
「愛すること」「許すこと」のできない自分を知って
「罪びと」である自覚ができました。
もっぱら、この「罪」とは
社会的な法を犯す…というより
(それも立派な「罪」ですが)
「神から離れていた」という
根本的な「罪」のこと。
頭ではなく、心で感じるまで
少し時間がかかったように思います。


次に学ぶのは
「救いは努力では得られない」ということです。
修業や、滝にあたったり、よい行いなどの
「善行では救われない」ということでした。
な、なんと
まさに「イエスを信じるだけで救われる」という
実に楽…というか、簡単というか
驚くべきことでした。


そして次は、
信じて救われて
天国行きのキップを手にして
…あとは「寝て待て」。
いえいえ、信じた後
容赦なく、「どう生きるべきか」
神を見上げている限り
導かれて行くのです。


必然的に「努力」が出てきます。
やらなければならない状況に追い込まれ
次第にそのことが喜びに変わって行く。
自分に与えられている「使命」を見出して行く。


私のような「のんびり屋」は初めからの性格ではなく、
自分から進み、どんなに犠牲を払って努力しても
「よい結果を得られない」ことをイヤと体験し、
いくらおバカさんでも
学習できるゴキブリに勝っていなければ情けない。
「導き」に従った努力は、必ずいつか実を結ぶのです。


実を結ぶことイコール有名になることではないですが、
ある方と昨日話していて
「あなたが70、80歳で有名になっている姿が
目に浮かぶようだわ」
と言われました。
でも以前、他の方が言われたことよりいいかも。
「君のパターンはゴッホかも。死んでから有名になるっていう。」


どう生きるか…いえ、どう生かされていくのか。
「神のみぞ知る」