決断

「導き」でこの世に「生」を受けて…
努力や願いで、まして親の「決断」であって
自分の「決断」で生まれた訳ではない。


すべてがこのように「流れ」や「導き」で
決まれば、ラクだし、迷いもないが
導き、導きと言っても
人には大きな「決断」が必要な時があるということを
最近、感じています。


「決断」というと
私は浜松の牧師先生を思いだします。
「神の導きが右か、左かわからない時、
私はあえて困難な道を選びました」。
私はその時の自分を振り返り、
楽な道、楽な道と歩んできたことを思いました。


その後、不思議な導きで小・中学校の音楽を
「産休補助」として勤めることになるのですが
…この話しはまたいずれ。


結婚はどんな「導き」があったとしても
「この人と結婚したい」という「決断」がなければ先に進めない。
(昔のように「政略結婚」なるものは別として。)


「洗礼」も「キリストを救い主として信じた」証しだが
「決断」が必要になる。


いろいろな意味で「決断」は「責任転嫁できない」という
「けじめ」のような気がする。
後悔するか、否か
リスクを考え、石橋を叩きながら歩く。
でも、よくよく考えると
やらずの後悔はやった後悔よりはしたくない。


ところで確か聖書に
「牛のいないところでは飼い葉おけはきれいだ」とあったと思う。
牛を飼う決断は牛を飼うことで豊かになれるが
「飼い葉おけの掃除」も付いてくる。
「グリコのおまけ」みたい…。
(すいません。
これが通じるのは、アラフォー世代以降だと存じ上げます。)


「決断」にはいろいろ、おまけも付いてくる。
プラスばかりとは限らないかもしれないが
「自己責任」覚悟で豊かな方を選ぶのか、否か。
そもそも「失敗」というのは「やった」前向きな結果。
何もしなければ「失敗」もない。


前向きな「失敗」なのだから
「失敗」のまま終わらせなければいい…だったら
一歩進む「決断」へ!!


あと、生きて行くゆえに大きな「決断」することは
何回あるのだろう。
どうか神のみこころでないなら閉ざしてください。。。
…どこまでも「ひ弱」な私ですいません。