「学ぶ」

最近「学ぶ」ことが多く、
学校の先生や講師の立場の経験もしてきて
今も音楽を指導する立場で
音楽以外の分野で
反対の「学ぶ」立場で
物事を捉えることができることは
とても感謝なことです。


「学ぶ」ことの楽しさを
学生時代に持てなかったのは、
実に惜しいことをしました。
「探究心」は昔から旺盛でしたが
「勉学」以外に向けられていた気がします。
(「食べ物!?」いえいえ…)


最近、学んでいて共通することは
「引っかかる場所が問題だ」ということです。
どうでもいいことに、引っかかってしまうと
肝心なところを素通りしてしまう。


同じように学んでも
人それぞれが違う捉え方をするのは
「引っかかる場所がどこか」で
変わってくるように思うのです。


先日を例にとると
「手話通訳」のための講座で
同じ言葉でも手話が変わることを学びました。


ビデオで
「テレビのCMで凄く切れる包丁を売っていた」
というテーマで
男性が奥さんにそれを説明するシーン。
大根を切る
紙を切る
木を切る
この「切る」という手話が異なる。
でも、あまりにリアルに
男性が驚いているので
私は「木まで切れる包丁なのか」と誤解し、
ある方は
「大根で紙を切った」と誤解された。
大根を切ったり、
紙も切れることだけで
「リアルに驚いている姿」。
それにしても、普通の包丁だって切れるでしょうに。
しかし見事に引っかかってしまった。
ビデオを見終わり
笑いと討論があったのは言うまでもない。


まぁ、ろう者の表現はそのくらいリアルであること
「切る」といういろいろな表現を学ぶことができたことを
捉えればOKな訳です。


どうでもいい「枝葉」の部分に
拘っている自分を発見し、
「学ぶ」ことによって
「学ぶ本質を捉える」という基本を
今さらながら知りました。


しかしながら紙を大根で切る…って言う話しだと
包丁のCMにはならない、
手品の話しでもないですからね。


…こういう所がこだわらなくていいところなんですね。