「受容」

「愛は名詞ではなく、動詞だ」
と、よく耳にしますが、
人はその「愛」の確かさを計りにかけているので
愛を説いているクリスチャンには
かなり「厳しい」。


その行動は
「偽善者」と呼ばれるものか、
「愛の人」となるものか。


「やっぱりクリスチャンも自分、自分じゃん」
そんな声をクリスチャンでない人から聞く度、
むしろ、そういう人の方が
見抜く力があるかもしれない。


正直、クリスチャンとして
他人事とは思えない。
私自身、耳が痛い。


たとえ「偽善」なことをしなくても、
どんなことをされても
受容できるまで行かないので
自分も同じ土俵に立ってしまうことがある。
「正しい」ことを主張して
傷つけてしまうこともある。


なかなか「愛の人」にはなれない。


以前、「高山植物」の話しを聞いたことを
思いだした。


ある花で(名前を忘れてしまった)
頂上にしか咲かない花があるそうだ。
理由は、
もっと低地で咲いていた花だったが
他の花に譲っているうちに頂上に…。
もう、そこはどの花も追いかけてこなかった。


人がそれを思うと
「名を挙げる」ことかもしれない。
クリスチャン的に考えるなら
それは「天国」かもしれない。
私的に考えるなら、
自分の「行くべき所」に辿りつける…と思う。


ただ問題は「受容」できるか、否か。


やはり「受容」できる愛を与えてください…と
神の前に、ひざまずくしかない。