悩み

まず、お話しなければならないことがある。
なぜ、何の権利もない私が
エラそうに「悩み」について話せるのか…。
それは、私自身が
クリスチャンになっても
「悩み」の中で生きていたから、
体験談としてシェアーできる訳です。


聖書の言葉で
「明日のことで思い患うな。」とありますが、
私は「明日」どころか、
昨日…いえ、何十年前にも遡っての過去まで、
いえいえ、悩んでもどうにもならないことまで
随分、抱え込んで
思い悩んでいる時期がありました。


まず、私が思ったのは
「悩むのはやめよう」
どうにもならないことを
悩んでいるのがバカバカしくなったのです。
小さい「悩み」はいいのですが、
問題は大きな「悩み」です。


先日、牧師先生が
「『悩むな』というのは励ましではなく、
神からの命令だ」
と語ってくださいましたが、
悩みの坩堝の中の時は
今思うと、祈っていたものの、
神様に頼らず、自分とか友達など人とかに
頼っていた気がします。


でも、それも必要だったこともわかります。
なぜなら、
自分や人では根本が解決されないこと、
神様に解決して頂くことしか
本当の解決はないこと、
そして、本当に神様を信じて
信頼していなければ、
「悩み」を神様に預けられないのだと
遠回りしたが、教えて頂いたから。


理解できないとか、不条理な「悩み」は、
復讐する相手がいない場合
どこに怒りをぶつけるのか。
相手がいて復讐しても、
返り血を浴びて、
決して状況を変えることはできない。


唯一の乗り越えられる思いは
「何か意味がある」。
でも、それは、
神様という存在を否定して
「何か意味がある」と思いこむのはムリがある。
「何か意味がある」それは、
私を創った神様がすべてご存知だから…という
後ろ盾なしにありえない。
そして「復讐はしてはならない。私がする」
と言わている神様がバックにおられること
神様を信じるなら、
その思いを明け渡すことができる。


いろいろな「うわさ」を流された。
自分が戦っても勝ち目はない。
なぜなら、事実無根に事実も混ざっているから。
そう、「神様が弁明して下さるまで待とう」


「悩み」を自分で抱え込むか、
神様に明け渡すのか
それは「私側」の問題だったと
今は言えるのです。