「こころ」の中は?

最近のニュースで
「昔、元警視の方が隣人の人を殺した」という事件。
その他にも隣人の騒音や
「布団叩き」で殺傷事件が増えていると
ニュースされていました。


まぁ、何の権威のないオバちゃんの意見では
あまり説得力はございませんが
「こころ」の置き場を考えさせられます。


先日、友達を車から降ろしている時、
すれ違いの車にバックミラーを
当てられてしまいました。
愛車ですが、多少でしたし、
とても真摯な態度でしたので
次の日、全く忘れていました。
これをトラブルにするくらいなら、
自宅の駐車場に止めて置いたら、
後ろのワイパーをもぎ取られた…
ということの方が問題だと思います。


誰でも、いくらでも、
腹が立てようと、あるいは
トラブルにしようと思えば五万と
あるのではないですか?


ではなぜトラブルにしないのか、
「そんな時間が勿体ない」
「そんなこと、生きるために問題じゃない」
「私もそんなことあるかもしれない」
(もぎ取ることはないにしても)
とわきまえるから、トラブルにならない。


でも、それは気持ちの余裕があって
時間の余裕がない時には
客観的にはわかる。でも、
実際「こころ」が一つのことで
いっぱいになってしまうと、
誰でも陥り易いことだと思うのです。


例えば、人間関係もそうですね。
(万が一にも…)
Aさんに嫌われた、
Bさんに誤解された
Cさんに無視された…
でも、イエス様だけに嫌われなければいい…
私はそう、思っています。


「こころ」がひとつのことに
捉われないこと…って大事かもしれません。


そして、「こころ」を
持って行く場所があるとラクです。
それが、イエス様なんですね。
  

「こころ」が何でいっぱいなのか
…時々、自問することも大切かもしれません。