生きる意味

きのう、
13年ぶりに、お会いした方がありました。
そのとき、その方は
教会を借りて寝泊まりされていたのです。
今は牧師となっておられました。
「ひさしぶりですね」と言われ
とても嬉しかったです。
ただ、お話した記憶はなかったのですが
私は、その当時、その教会の唯一の奏楽者だったので
覚えて下さっていたのでしょう。


「人生」って。。。
一世を風靡した方が晩年、
「自ら命を断つ」という最期で
「人生」の幕を下ろす方もおられれば
生きることに尽き果てるか…と思われたが
「希望」を語る生き方をされて
おられる方もいる。


「人生」
生きたくても生きられない方もおられます。
「人生」
死にたくて生きられない方もおられます。


「なんの為に生きているのか」
「なんの為に生まれて来たのか」


この地で生きられたとしても100年。
(歳を考えれば、もっと短い)
少し、早いか遅いかの違いだけ。


なぜ、急ぐ人がいますか。。。


自分で急がなくても、
間違いなく、例外なく
確実に「この世の最期」
必ず、この地での命は尽きます。
…その時は来るのです。


私自身、イエス・キリストと出会って
信じて、共に歩むことになって
「失望」から「希望」へと変えられた一人です。
いくつかの「九死に一生」を得て
恵みで「生かされている」人生でもあります。


そして、この世の終わりは
「永遠の始まり」であることを知っています。


かと言って、
「今」をないがしろにするつもりもございません。


これからも、紆余曲折しながらも
イエス・キリストにすがって…いえ、
ついて行く道を進んで行きたい。
サル、犬、キジのように。。。
あっ…「きびだんご」欲しさではありませんが。。。




マタイによる福音書 / 16章 26節
人は、たとえ全世界を手に入れても、
自分の命を失ったら、
何の得があろうか。
自分の命を買い戻すのに、
どんな代価を支払えようか。









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信仰

「信仰」が「思い込みではなかったか」
自問自答する、いわば「どん底」なる気持ちを
味わったことは、今になれば、
私の大きな宝となったのです。


気がついてみると
「信仰」の思いも大きく変わったように思います。


以前は、自分が望んでいることを
神様が助けて叶えてくださる筈だ!
…といわば強引な「信仰」から
必要なら神様が与えてくださる
…と半ば主にお任せの「信仰」へと変えられました。


潰瘍性大腸炎」は難病ですが
少しづつ解明されてきています。
それは、自分で自分自身を攻撃する
「免疫性」の病気だということです。


なるほど…と思うことがあります。
それは、自分を苦しめていたのは
紛れもない自分自身であった…という事実です。


岡本真夜さんの「Tomorrow」
「プライドとか捨てたらいいことあるから」
という歌詞は人は
「捨てる」ことによって
得ることを知っておられる…ってことでしょうか。


あるセミナーで、
自分の価値観を変えるできごと…
1、無一文になること
2、刑務所にはいること
3.火事にあって家が全焼すること
というお話がございましたが
正直、どれも経験したくはないですし、
これを経験しなければ…となると
ここまでして…という気持ちにもなります。


幸い、イエス様を信じておりますと
「耐えられない試練は与えない」という
聖書の言葉を知っています。
神様の管理下の中で「人生の塾」に
遭うことがわかります。
その許された「試練」の中で
丸裸にされ、「捨てざるを得ない」状況に…。
(その中で、実際捨てるか捨てないかは
自由意思に任されておられるのでしょうけど。)


先ほどの「Tomorrow」に戻りますが
「涙の数だけ強くなれるよ」…というのも
確かに…。
多くの方々がこの曲の歌詞に共感されて
ヒットしたことも
捨てられず、苦しんでいる人が
多いことの表れかもしれません。


次の聖書の深さを思います。


マタイによる福音書 / 16章 24〜25節
それから、(イエスは)弟子たちに言われた。
「わたしについて来たい者は、
自分を捨て、
自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。
自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、
わたしのために命を失う者は、それを得る。





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元気印

先日、壊れたお釜…電子ジャー。
早速、主人が新しいジャーを買ってきた。
驚いたことに、そのタイマーを
セッティングする音に聞きおぼえがあった。


それは、以前入院していた時
胸と肩の間くらいから入れる点滴
IVH)をしていた時
機械を通す、セッティングする音と
全く同じだったんですね。


私はさすが「感覚で生きている」と
自負してるだけあって
匂いや音で、その時にワープできるんです。


目を閉じると
白いベッドと白い部屋、
病院の匂いが私を捉えました。
いつ外に出られるかわからない
点滴というクサリに繋がれ
歩くこともままならない
水すらも口に含むだけで
飲むこともできなかった…。


当時を思い返すことで
「そうだ。今ある恵みを忘れていた」
と気付かされたのです。
神様は聴覚、嗅覚、視覚…を通して
私の原点に立ち返らせてくださる。


きのう、ある婦人の方にいわれました。
「あなたの元気もらった!!」。
そう言われるほど、
元気になったんですね。
神様は陰のとりなし、いろいろな方の出会い
サプリひとつを通しても
導きを与えてくださって
今の自分があるのでしょう。


感謝!感謝!感謝!…
いくら感謝しても足りない!!







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久しぶりに…6年ぶりでしょうか。
ある方から電話がありました。
お孫さんが小学1年生の時に
ウチにレッスンに通ってこられていましたが、
今回は「知り合いの方を紹介したい」という
お話でした。


お孫さんには、ピアノも歌も可能性を感じて、
厳しく指導した記憶があります。
「ミュージックフェスタ」
という錦糸町の「すみだトリフォニー」で
発表会を行うにあたって
その日を終えて、やめられ他の教室に移りました。
引き止めませんでしたが、
正直、「これから」と思っていたので
残念に思ったことを覚えています。


でも、未だに私のことを覚えて下さり、
「そのお陰で中学に入って音楽を選んだ」と
お電話を頂けるのは、ありがたいことですし、
その時していたことが報われた…と思いました。


よかれ…と思っていることが仇になったり、
誤解されたり、
良い方向に向かないことは
少なからず、あります。
でも、時間はかかるかもしれませんが
解ける日が来るんだ…と改めておもいました。


すべてに「時がある」という聖書の言葉*1が
浮かびました。


*1:伝道の書 (コへレトの言葉)/ 3:1〜3:11
天が下のすべての事には季節があり、
すべてのわざには時がある。
生るるに時があり、死ぬるに時があり、
植えるに時があり、植えたものを抜くに時があり、
殺すに時があり、いやすに時があり、
こわすに時があり、建てるに時があり、
泣くに時があり、笑うに時があり、
悲しむに時があり、踊るに時があり、
石を投げるに時があり、石を集めるに時があり、
抱くに時があり、抱くことをやめるに時があり、
捜すに時があり、失うに時があり、
保つに時があり、捨てるに時があり、
裂くに時があり、縫うに時があり、
黙るに時があり、語るに時があり、
愛するに時があり、憎むに時があり、
戦うに時があり、和らぐに時がある。
働く者はその労することにより、
なんの益を得るか。
わたしは神が人の子らに与えて、
ほねおらせられる仕事を見た。
神のなされることは皆その時にかなって美しい。
神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。
それでもなお、
人は神のなされるわざを
初めから終りまで見きわめることはできない。






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投げたパン

今、ある小さいグループの歌の指導を
いくつか持つことが導かれている。
入れ替わりすることもあったが
今は少人数でも定着してきた。


正直ここまで来るのに
「辞めたい」と思ったこともあるグループもあったが、
聖書の言葉で「パンを投げなさい」*1
という言葉で踏みとどまり、
最近はみんなの笑顔が見たくて
アレンジしている自分を発見した。


10年ほど前、
100人くらいヤマハで教えていた時もあった。
でも、個々の大切さを
今ほどには感じていなかったと思う。
(とは言っても、先日
一番長い方の名前が出てこず
失礼してしまったが…。)


「人は許すものではなく、愛するものだよ」
と言った方の言葉を今になって感じるようになった。


最近、人が好きになった
…変な言い方かもしれないが。
みんなの喜んでいる姿を見たい。
心あふれる笑顔を見たい。


…「お笑い」が行く道でしょうか。



*1:コヘレトの言葉(伝道の書 )
11章 1節

あなたのパンを水に浮かべて流すがよい。
月日がたってから、それを見いだすだろう。







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幼子のように

主人の話しで…
「結婚した当初はもっと純粋な、
『自分もそうなりたい』と思わせるような
真っすぐな信仰がお前にはあった。」


そう、「あった」ということは
「今はない」という話です。


確かに思いあたる節があります。
今より、昔は感情の起伏がありました
…子供のように。



浜松の小、中学校の教員をしていた時、
初めての「卒業式」を迎えた日、
生徒と抱き合って大泣きし
担任の先生より
「まるで、今生の別れね」と笑われ、
2度めの経験の時は歯を食いしばって
泣かないように努力をした。
不思議に3度め以降は
努力しなくても泣かずにいられた。


最近、
「教える事がむいているのだろうか」
と思うことがある。
なぜなら、昔のようではない。
「何が何でもこうするのだ」的なパッションが
なくなったのか、
教え方に余裕が出たのか。


「出る杭は打たれる」
といろんな所で、言われていた…
でも、今は「守り」に入っているのか
あまり言われなくなった。


果たして、それが成長したことなんだろうか。


神様をまっすぐ見上げていた筈だったのに、
私はもしかしたら
「成長」という言葉に惑わされて
駆け引きの上手な「おとな」に
なってしまっていたかもしれない。


「はじめの愛から離れてしまった」
(聖書:ヨハネ黙示録)
どうしたら、はじめの愛に
幼子のような信仰に、戻れるのだろう。









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御霊の実

パソコンの次は私自身が
ウィルスにかかってしまい
月曜日は仕事を休み
ほぼ一日寝ていました。


この半端ないウィルスによって
より健康のありがたさ、
神様の守りを感じましたね。
「眠る」ことは
もちろん嫌いではありませんが
不思議なくらい深い眠りで
心地よい「眠り」が与えられ、感謝でした。
(あれだけ深い咳をするなら、
普通は眠れないでしょうから)


「雨降って地固まる」
これからは、
「The Simple Life」を目指したい
…と横になりながら、思いました。
このことも意味のあることなのでしょう。
最近、思うのは
「御霊の実」と語られている聖書の言葉です。


確かに、自分に厳しいと人には厳しい。


「血液A型の人は、自分に甘くて人に厳しいらしい」
A型の方がA型の私に話してくれました。


…。


(「占い」は信じてません)
しかし、グサっとくるのは…。


今まで人、そのものを嫌いになったり
「受け入れがたい」と思ったことが
正直ありました。
でも、最近「やり方があわない」とか
「考え方がちがうんだ」とか
一呼吸置けるようになってきた気がします。
でも、
「御霊の実*」を結べるほどではないのですが…。
御霊の「葉」と表現しなかったのは
「実」は最後で、
時間がかかるからなのでしょうか。


「成長させてくださるのは神です」
…ここも神頼みで、前進したいです。


*愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制
ガラテヤ5:22〜23







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